2009年10月27日火曜日

ルプリーさん

読もうとなさる方々に下記は全部実話だと伝えたいと思います。さて、四年前の話で、場面はよく知れ渡る東京都の池袋です。友人と池袋駅の近くでうろちょろしたりしており、すぐ局地から逸れ、あっという間のように完全道に迷いました。僕らのホテルはなんか「サンシティ」や「サンホテル」と言い、確かにららマートとポケットバンクの辺にあり、クラタセブン(Kurata Seven)のビルボードが部屋の窓から見えました。内国にいる彼女にサングラスか何かいい物を買ってあげるつもりなんだけど、当時はセブンで買い物できるどころか自分のホテルさえ見つけられませんでした。
どうせなら道に迷ったがてらに、探検に行くでもいいと思い、明治通りの小さな分かれにセブンエレブンに会しました。至る所にすっかり日本っぽく、僕らによく知っているものやビルなどがさっぱりなかったで、馴染み深いセブンエレブンのような地名がようやく現れて嬉しいったらありゃしないんでした。僕とベンという一緒に流離った友はまるでオアシスとおぼしきものをやっと見たように祝い始めたけど、トニは「憩いの場じゃねんだよぉ」とグチグチと状箱の隅をようじでほじくりました。「細かいことでとやかく言うのはよそう」と返信して、トニはかんかん頭に来るそうだから、丸く収まってみるようにスタンドバーとかライブハウスとか見つけたらどうだって聞いて試みました。すると、後ほど落ち着いたので何かいいナイトクラブなどを探し始めました。
この次章を語る上で委曲を尽くすべきことがあります。僕のかっこうは大半が米人的に普通だと思ったけれど、ベンとトニのはぎらぎらしたアクセサリーなどをしたり、ぎゅっと足のきついジーンズを履いたり、アイライナーを目張りしたりしていました。二人ともはなんか白人バージョンのセンターGUYの本物で通り、周りにいる日本人は全員軽蔑などの意を込めてジト目をし、僕にも仲間に加えられてしまいました。ただクラタセブンに買い物したかったのに!
ともかくも酒場を探す途中、不良老年みたいなおじさんが寄りつきました。当時は僕よりベンの方が日本語をうまく言えるのでベンがおじさんと話しかけました。すると、その辺りに安くていいバーがあるようだとベンはその会話から訳してくれました。も一つ、外国人は特に砕けた態度に扱われ、優しくされる、とおじさんがベンに伝えました。行き路によれば南池袋にあり、驚いたことに行程は高が二画でした。5分ぐらいにとどり着き、僕達は欣々然と入りました。
ずいぶん黒っぽく、暗中には売り場は見にくいでした。注文しようとしたら、どこからともなくコスミックボーリング場みたいに赤いと青いランプ点滅しており、ディスコミュージックが始まりました。周りの人は風変わりに踊り始め………だれしも男でした。ホモバーに入ってしまいました!しかもダンディマン組一緒と言えるトニとベンと付き合っていた僕も同性愛者に見えて困りました!どうしようかと考えかけたが、突然に熊みたいな男が慕いより、何かやばいことが起こらない内に逃げ惑い、なんとか玄関口を見つけ、落ち延びました。セブンエレブンへ走って戻り、危機一髪の脱出でした。
その話は体験した事の中に一番怖い、不気味、そして面白かったのです。彼女にサングラスを買えなかったけれど、まあ、とどのつまり「セブン」で買い物できるわけでしたね。

2009年10月26日月曜日

サラザーさん

私が特別な日に考える時にやはりたくさんを覚えられるけど、最も好きなのは確かにクリスマスです。好き訳はすべての家族が集まりまして、雪がすごく降って、皆がプレセンツを贈答して、すごく嬉しいと楽しい時間です。一番大好きなクリスマスは2003年でした。私は高校のさん年生でした。そして、クリスマスの前の日クリスマスイヴで雪が信じならないくらい降りました。そこで、私と自分の家族がすごい嬉しかったです。ユタ州の北のほはしゅうしんだから雪はにいがた県のように湯名です。しかし、2003年の吹雪は本とにすごいでした。二つの日の間に218センチくらい降りました。クリスマスの朝に覚めた時、両親が相変わらず私と兄弟たちのためにリビングに、もプレぜんツを出しました。私がすごくて新しいプレイステーションを欲しかった。しかし、私の家族の中に特別なプレぜんツ開口し方があります。いつもお父さんが最初のプレぜんツを開口して、その後お母さん、その後年上から子供たちが開口できます。また、最も欲しいプレぜんツは最後まで開口することができません。このほうで最後のプレぜんツまで皆がわくわくしています。私が遂に最後のプレゼントを開口しながらちょっと心配して、プレイステーションのように見えなかった。訳は箱をおきたあとでほかのほこがいました。そして、わたしがちょっと笑ってつぎの箱をおきり、もいかいほかの箱がいました。それだから三つの箱後でお父さんに隔靴掻痒に見て、最後の箱を開口し、とうとう私のプレイステーションがいました。すごく嬉しくて親たちをハグしておとうとといっしょにプレイステーションとテレビをできるかぎり準備し、プレイステーションを遊びました。
だんだんによるになて、お母さんが大きいターキー晩餐を作り、皆が準備のことと助すけり、4時くらい家族として食事を食べ始まりました。お母さんの料理はとてもおいしいので、病気までたべました。6時ごろたくさんの雪がありましたのでスノーモービルをよく運転し、雪だるまを作り、家族として色々なゲームを遊びました。そして日を終わるために皆がベースメントのリビングに座って、ビッグスクリーンで面白い映画を見ました。いつもTHEGRINCHという映画を見ます。JIMCARRYという男優が出て見るからとても面白いです。そして、映画の後で皆が部屋に寝ていきました。
家族がいつも集まり、いっしょにたくさんの活動をするのでクリスマスは私の一番大好きなホリデーである!とてもやさしい時間です。

伊藤さん

人生で一番悲しんだ日
人生は波乱万丈です。何気ない日常だったり、楽しい日、悲しい日等色々な日が重なって私たちの人生は成り立っています。私の人生には数え切れないほどの楽しいことや、悲しいことがありました。その中でも去年の春休みのある一日について書きたいと思います。その日僕を幸せの絶頂から不幸の絶頂へと誘いました。
春休み、私は今のルームメイトで友人のアレンさんの住んでいるパナマを友人3人と共に訪れていました。彼の家族はとても親切で、食事やステイ先等全ての面倒を見てくれて本当に順風満帆の旅でした。旅行の三日目の朝、私たちはデカメロンというリゾートホテルに向けて出発しました。そのホテルでは常にご飯は食べ放題で、近くにはビーチ、プールやバー等レジャー施設が全て揃っていてまさにユートピアのような場所でした。デカメロンには二泊して、その後彼の別荘に行きました。その別荘に着いて2時間ほどで私の幸せな春休みを悪い思い出に変えてしまう事件は起きました。
私たちは彼の別荘で荷物を降ろし、少しくつろいだ後にバギーで遊ぶためにビーチに行きました。バギーはスピード感があって本当に楽しく、ビーチの開放感と相まって私はどんどん解放的な気分になりましがそれが間違いでした。なにを思ったのか私はバギーを最高速度で走らせ、ドリフトに挑戦したのです。もちろんそんなテクニックを持っているわけでも無いですし、今でも何故挑戦したのかわかりません。バギーは横転し、私は物凄い勢いで砂浜に叩きつけられました。立ち上がった瞬間に、これはやばいなと感じたのですが、私をホストしてくれている友人と、友人の家族に心配をかけたくなかったのでとりあえず平気なふりをしていました。時間が経つごとにどんどん腫れ上がり、痛みも増してきて、その日の夜にはベッドに仰向けになることも困難な程の痛みになっていました。とりあえずパナマにいる間は隠そうと思い、残りの5日程は根性で隠しました。
パデュー大学に帰ってきて、早速PUSHに行ってレントゲンを採りました。病院の先生は、深刻な顔をして私に検査結果を伝えました。鎖骨が見事に、しかも離れて治りにくい形で折れていたのです。手術を勧められましたが、体にボルトが入るのは嫌だったので自然治癒を選びましたが、全治4ヶ月という診断結果でした。筋トレと格闘技が趣味の僕にとっては最悪の出来事でした。グラップリングのトーナメントと、総合の試合に向けてしてきた練習も全て水の泡となってしまいました。ストレスで食べ過ぎ、試合に向けての減量さえも無駄にしてしまいました。パナマで骨折した日は、僕の人生の中で、一番悲しい日のひとつです。

ゴさん

思い出の一日

二00九年十月十一日、私は朝早く起き、米国の首都に行った。前日、インディアナポリス空港から飛行機に乗り、私はバージニア州のリッチモンドという州都に到着した。そこで、友達のティファニのアパートに泊まった。ワシントンD.C.に行った日はもう秋なので、木の葉が紅葉しており、道路の右側も左側も景色が非常に素晴らしかった。私は普通で車に乗るに際し、いつも眠い感じがする。しかし、今度のドライブ限り私は全然寝ないほど、行き場を楽しみに待った。
日曜日なのに、私達はワシントンに着いたとたん、幸いにも駐車場を探した。その上に、私とティファニは探した駐車場が有名なスミスソニアンに近い。私達は朝御飯を食べずにアパートから出かけ、真昼に二人はお腹がすいてしまった。博物館に入る前に、安いとおいしいホットドッグを買い食べた。私達はホットドッグを食べながら、スミソニアンのビルの外で散歩をした。太陽が輝いており、天気が良い日だが、どこにも人が多かった。外国人旅行者やアメリカ人家族など、様々な人がいた。やはり大学の秋休みのせいか、私達のような大学生もたくさんいた。
私とティファニは「スターヲーズ」の大ファンだ。その理由で、私達は始めに航空宇宙の博物館に入り、ダースベイダーの等身大レプリカを見つけて欲しかった。 航空宇宙の博物館に多数な飛行機とロケット弾と新世代コンピュータのレプリカがあった。歴史から研究まで、色々な理工に関係があることを表し、私達には本当に驚くべきものだった。残然な事に、ダースベイダーの 等身大レプリカを見つけなかった。
航空宇宙の博物館における遊んだ後で、私とティファニはホワイトハウスに行き決めた。長い距離には目もくれず、私達は国会議事堂からホワイトハウスの方向に歩きだった。ワシントンのナショナルモールのほうがパデュー大学のメモリアルモールより大きすぎる。それ以外に、地図は複雑の問題があると、私達は道に迷うことができた。約一時間後、ホワイトハウスに届いた。その時、私達は足が痛い、全体疲れるものの、ホワイトハウスが見えることに嬉しかった。
史蹟を探すのはたくさん時間をかかり、すぐに午後六時になった。日暮れ前に私達は駐車場に帰るべきだと思った。帰る道で夕日はナショナルモールの木と白い建物の上に火の色を映し、名画と比肩するきれいだと感じる事ができる。私には今年の秋休みに、ワシントンに行ったその日曜日は絶対忘れない一日だと思う。

ペリーさん

学生なので、毎日はとてもつまらないです。朝九時ぐらい起きて、多分朝御飯を食べて、授業へ自転車を乗って、クラスを通って、帰って、宿題をして、ようやく寝ます。明日繰り返す。そして、二年前の日について話します。その日はチャンピオンズリーグファイナル試合の日です。あの日、チェルシーとマンチェスターユナイテッドが勝負した。私はマンチェスターユナイテッドファンだから、あの勝負はとても大切でした。1999以来マンチェスターユナイテッドはチャンピオンズリーグを勝っていないんでした。あの年、マンチェスターユナイテッドはプリーミールリーグ勝ったから、「ダブルする」という機会がありました。取り敢えず、勝負について話すことでいいです。
あの日の朝、ベッカーズという朝御飯レストランに行って食べました。私はベーコンと卵とソーセージを食べたり、牛乳とオレンジジュースを飲んだりしました。その後で、沙織が109に行ったがっていましたが、109に行きました。あの九回のビルで沙織と走り回りました。毎店のように高いので、私はあまり買っていないんでした。でも、沙織がとても買いました。109を出た上で、昼御飯を食べたかった。毎日のようにカツカレーが食べられるから、カツ屋というレストランに行って決まりました。その店においてもちろんカツカレーを注文した。楽しみに、注文時から食べ物をもらう時までがかかる時間を計りました。一分半ぐらいかかりました。
その後で、ゲームセンターに行って遊びました。私は音楽ゲーム大ファンです。沙織もそのゲームの大ファンだから、三回音楽ゲームスクションに行って。私はドラムマニアというゲーム五年ぐらい遊んでいましたけど、沙織は素人でした。そして、遊び方を教えました。もうすぐ、沙織がドラムマニアに夢中されました。私は遊びたかったけど、沙織が嬉しそうだったが、ギターフリックスというゲーム遊びました。ドラムマニアとギターフリックスは同時に遊びられから、一緒に遊びました。すごく楽しかったです。ロックアンドロールをしながら、腹減ったになりました。破格な日なんだから、晩御飯はお寿司でした。立つ寿司バーに行って食べた。とても美味しかった。
晩御飯後で、勝負の時間はもうすぐになります。そして、HUBというバーに行きました。少しビールを飲んだ後、勝負が始まりました。半期はマンチェスターユナイテッド1ポイントがありましたが、チェルシーはゼロポイントがありました。でも二期にチェルシーが伯仲になりました。そして、ペナルティーをしました。ようやく、マンチェスターユナイテッドはペナルティーで勝ちましたが、ヨーロッパのチャンピオンズになりました。それはとても面白かった日でした。         

リンさん

特別な一日 ~誕生日~
リン

「誕生日おめでとう!」。この言葉を人を不思議な気持ちにさせる魔法を持っている。自分の年齢増加に嫌気を感じる人は、この言葉を聴くと、少し不愉快になるかもしれない。小学生が同じ言葉を聞いたら、嬉しくてたまらない。なぜなら、その日は自分のほしがっていた物をもらえることが叶う日だからだ。僕自身はあまり誕生日に関心が無かった。ただ一歳増えるだけで、特に変化が起きる訳ではないと思っていた。だが、今年の誕生日は、僕の誕生日に関する考え方を覆したほど、僕にとって、非常に格別な誕生日だった。
アメリカでは21歳の誕生日は、まもなく21歳になる人たちにとって、とても特別な日だ。アメリカで21歳になるというのは、今まで未知の世界だった所にアクセスできるチケットをもらうことだ。そのチケットで、今まで出来なかったことが出来るようになる。21歳になることで、お酒をお店から買え、バーやクラブにも出入りすることができ、車をレンタルし、合法的に飲酒することが可能になる。未成年の頃にお酒を飲んで、警察に捕まりそうになったことのある僕にとってみれば、21歳とはとても魅力的な年だった。ある意味、21歳になるのが憧れだった。自分の誕生日をどうでもいいと思っていた自分でも、今年の誕生日は魅力的で、さすがに無視することが出来なかった。
21歳になった気分は良いが、僕を最高な気分にさせてくれたのは21歳になったということだけでは無く、その他にまだ理由がある。その理由とは、友達や家族、親しい人からの祝福を受けることだ。その日は、色々な人から「誕生日おめでとう」と伝えられた。たとえ、その言葉を言っている本人たちの中には、軽い気持ちで言ったかも知れない。でも、自分にはその一言がとても嬉しく感じた。午前12時になった瞬間に、何人からもテキストメッセージと電話をもらった。テキストメッセージや電話をもらったときは、相手の顔が見えなかったが、不思議と、相手の暖かいぬくもりを感じた。その日、自分のメールボックスには4個もパッケージが届いていた。一つ目のパッケージは親からだった。パッケージを開けてみたら、風邪薬が入っていた。僕の親は本当にセンスがないなと感じたはもう何回目だろう。二つ目のパッケージを開けたら、手紙、手作りの子熊のアクセサリー、女の人が写った写真、カスタムデザインされた服が入っていた。僕をびっくりさせようとした彼女からのサプライズパッケージだった。僕はルームメイトがいるから、彼女の写真は恥ずかしくて飾れなかったから、まだ自分の引き出しに閉まってある。あと、もう二つのパッケージはホストファミリーからだった。片方のパッケージは僕のホストマザーのホームメイドチョコレートチップクッキーとキャンディーが沢山入っていた。もう片方のパッケージはインドネシアの民族衣装とレストランのギフトカードが入っていた。チョコレートチップクッキーはルームメイトと美味しく頂いた。インドネシアの民族衣装は派手だから、それを着て、授業に行くのは少し恥ずかしいから、まだ着ていない。
今年の誕生日は人生で最高の日とは言えないかもしれなかったけど、9月の中では、明らかに一番思い出に残るような日になった。また自分がいつこのような体験をするか分からないが、何度このような事があっても飽きることはないだろう。

グティエラスさん

思い出の一日
  私の一番面白かった日は私の二十一歳の誕生日でした。その日、早く起きて、母はパンケーキやベーコンなどを作りました。朝ごはんはとてもおいしかったので、食べ過ぎてしまった。朝ごはんを食べた後で、母と買い物に行きました。誕生日は八月にあったから、色々な学校のことを買って、新しい服も買いました。次に、兄はシカゴから来て、兄と両親と一緒に私の一番好きなレストランに食べに行きました。李のモンゴリアのグリルというレストランで自分で選ぶ炒め物を作りました。私の炒め物の中で、肉は鳥肉と牛肉で、ヌードルは饂飩で、野菜は人参やハラペニョやねぎなどで、パイナップルもありました。材料を選んだ後で、シェフはレストランの特別なソースと炒めました。そのレストランの料理はいつもおいしくて、その日もおいしかったです。昼ご飯が終わった後で、父と兄とシカゴファイヤーのサッカー試合に行きました。試合は、トヨタパークであった、試合の前に、祭りがありました。ゲームや出店などがあった、コンサートも行なわれました。ビジティングチームはロサンジェルスギャラクシでした。二人の有名なサッカー選手がいました。メキシコからブランコさんとイギリスからベッカムさんがいてから、ファンが多くて、気が立ちました。サッカーの試合は九十分がかかって、八十分でブランコさんはフリーキックを取った、ゴールが来ました。シカゴのファン達は本当に嬉しくなりました。最後スコアは1対0であった、ホームチームが勝ったので、花火大会がありました。後で、父は家に帰りましたが、私は兄と一緒にシカゴのバーとナイトクラブに行きました。その日、私の友達はまだ二十一歳じゃなかったので、兄の友達と行きました。兄の友達は、『今日はあなたの誕生日ですので、明日には目もくれず酒を飲みましょう』と言ってきますが、少しだけ飲みました。私は踊ることが上手じゃありませんですが、踊ることが好きです。そして、ナイトクラブは楽しかったと思います。最初にサルサダンスクラブに行きました。私のグルプは下手ですが、皆は踊って、面白かった写真を取りました。私は二年前に、社交ダンスのクラスを取ったので、徐々に上手になりました。次に他のバーに行ったが、一番楽しかったはサルサダンスクラブですので、戻りました。そこで遅くまで踊って、そして兄のアパートに行きました。皆はまだ眠くなりませんので、インディアナジョーンズという映画を見ました。見たと言っていましたが、映画が終わった前に皆は寝ていました。その日はとても面白かった、私はとても嬉しかったので、全然忘れることができないと思います。

スタンダードさん

思い出の一日
毎日は楽しくて、いいことばかり起こる。だから、ただ一日を選ぶのは難しくて、よく出来ない。
先週の金曜日(2009年10月16日)は得に特別な日だった。朝ちょっと寝坊したから朝食を食べずに大学に行った。車で行くけど、駐車場はSC(スタンリーカルタ)というビルから非常に遠い。毎日DSとPSPとUMPCを持って大学に行っている。DSでゲームができて、その上辞書として使える。PSPでゲームや音楽や動画ができる。UMPCはりゃくごで「とても小さいパソコン」という意味がします。とにかく、暇があったらとか、何かを調べたかったらとか、なにかできると思う。
そして、あの日、初音ミクの「嘘つきのパレード」をPSPで聞きながらスポーツセンターの駐車場からSCへ歩いた。初音ミクは人間じゃなくてコンピューターのアプリだ。それでも、歌える。去年スタジアムの駐車場から歩いたけど、スポーツセンターの方はやはり近い。そう言っても、全然近くなくて、歩くのは十五分ぐらいかかる。遅れるかどうかと心配したのに、天気のせいか、SCに早く着いた。天気はさいていだった。寒くて、雨が降って、たぶんいつもどおりより速く歩いた。
早く着いたので、教室にはまだだれもいなくて、教室で一人で待った。金曜日の最初の授業はドイツ語。私はたいだなタイプなので、ドイツ語の宿題はまだ終わっていなかったに決まっている。でも、授業が始まる前に少し時間があったから、なんとか終わらせた。そして、その後、DSでラブプラスというゲームをした。
ラブプラスは女の人に惚れて、がんばれば、女の人に惚れられるゲームだ。女の人は三人います。姉ヶ崎寧々は一番年上で、自分のキャラより一年はなれていて、みじかい髪の毛をしていてとても独立だ。高嶺愛花は年によると真ん中で、髪の毛は長くて、テニス部のエースで、とても甘い。小早川凛子は背がひくくて、髪の毛もみじかくて、性格は全然優しくない。凛子はそう言う人だから、凛子と一度しか話さなかった。寧々はデキシシーズというファミレスで一緒にバイトしているから、寧々とよく話す。寧々はとてもたのもしくて、いつも寧々のお世話になている。
テニス部に入ったから、愛花とよく会う。放課後に一緒に帰るとか。愛花の家族はとても金持ちで、愛花は普通な女子高生ではない。テレビでドラマじゃなく、相撲を見る。音楽なら、J-POPじゃなく、クラシックの音楽しか聞かない。寧々と愛花の中で、どっちが好きか、今までまだ分からないが、たぶん愛花の方はいいと思う。年上の女の人に興味ないから。
運動に苦手のに、愛花ともっとなかよくなるためにテニス部に入った。いつか、愛花にほめられるために毎日練習した。そして、やっと、先週の金曜日に愛花がいつもがんばっている私を気づいた。そして、「付き合おう」って言ってくれて、デートをした。最高の日だった。

ビーシングさん

一番面白い日                

二月に札幌の北海道で大きい雪祭りがあります。たくさん彫刻があるやゲームも出来ることがあるなど、本当に楽しいんです。しかし、この作文に違う雪祭りについて書いて欲しいです。これは私の小樽の雪祭りのアドベンチャーです。
『前の日』札幌の雪祭りを観光するために、ホステルを出かけた時、たくさんパンフレトを見ました。レストランは普通のパンフレトがありましたが、一つしか面白くないと思いました。「小樽の雪祭り」と書いて、写真はたくさんろうそくがありました。「これはきれいだね」と考えて、「明日、行けばいいのに」。それで、札幌の雪祭りに行きました。
『アドベンチャーの日』小樽に行く電車に乗るに際して、本を読んでいる間にとなりの男の子は病気になってしまいました。男の子が吐いたから、私も少し病気になってしまいました。しかし、男のかの両親はきれいにする上で、妹さんに遊んでいました。小樽に着いてからうれしくなりました。
駅で、小樽の雪祭りのサインがありません。そして、駅員に雪祭りはどこと聞きました。祭りの行き方をおしえてくれてから、えきを出たとたん、日本人みたいオーストラリア人のグループは英語で「日本語が話せますか。一人で旅行をしますか」と聞きました。私はびっくりして、「はい、そうです」と言いました。また、そのグループがと一緒に観光することを訪ねてくれました。そして、私たちは小樽の祭りに行きました。
たくさんきれいな雪の彫刻を見て、写真を取りました。一時間か二時間後で、手袋はめたのに、手が痛いほど、冷たくなりました。そして、あたかもこわいな人からにげるように暖かいレストランを見つけました。おいしいラーメンのレストランを見つけました。入った上で、ウエイトレスはオーストラリア人に「いらっしゃいませ。何人目様ですか」と言いました。しかし、このグループは日本語が全然分かりません。そして、わたしは「八人です」と答えました。ウエイトレスは本当にびっくりしました。私の新しい友達はこれが面白いと思いました。
おいしいラーメンを食べてから、何時に目もくれず、駅に戻りました。戻っている間に、グループの女の人はたこ焼きを買いました。駅に着いて、チケットを買いました。一台しか札幌まで行く電車がありませんでした。私たちは本当に幸運でした。電車に乗る上で、私は「どこで泊まりますか」と聞きました。「国際若いホステルに泊まっていますよ」と答える友達でした。「あ!そうですか。私もこのホステルに泊まっていますよ」と言う私でした。地下鉄に乗って、十一時五十五分ぐらいホステルに着きました。これも幸運です。ホステルは十二時まで開いていました。
これで私の一番面白い日が終わりました。新しい友達を作ったり、おいしいラーメンを食べたり、最後の電車に幸運に乗ったりしました。とても楽しかったです。

ルッツさん

思い出の一日


私の人生はちょっとつまらない。今、私は起きって、大学に行って、アルバイトに行って、寝付きます。また、宿題がたくさんありますから、バーとパーティに行きません。大学はとても忙しい時間です。私も、休み中のアルバイトに行きます。でも、時々大学の休み中に私は自分を楽しみます。例えば、昨年の夏休み中に私のふたごは私の家に住んでいました。その時はとても楽しかったでした。
私のふたご名前はKandisでして、大学寮に住んでいます。でも、長い休み中に、彼女が引っ越さなければならない。私たちはアイダホにいらしゃいますから、私のアパートに移動していました。私はフィアンセと二匹の猫と住んでいます。また、アパートはちょっと小さいです。だが、予備の寝室があります。しかし、だいじょうぶでして、詰め込みました。本当に、彼女をたくさん物いました。そして、彼女の車と友達の地下に彼女の物を蓄えりました。
Kandisは私の一番いい友達でして、でも、私たちは性格が違います。それから時々戦います。私たちは1分だいじょうぶでした、次分私たちに戦います。また、5分後に私たちはふたたびはだいじょうぶです。私のフィアンセはわかりません。でも、面白い人生になると思います。
私の思い出の一日は結婚日のショッピングをしました。私は来年結婚します。そして、結婚服と服飾を買う必要があります。私たちはインディアナポリスでたくさんブライダル店に行きました。ブライダル店の従業員はとてもすてきでした。店の客足はケーキとシャンパンを受けます。とてもすごいでした!また、たくさんウエディングドレスを着りまして、きれいすべてが非常にしました。 それから、Kandisはベールと靴を見つけました。これは、すべて700ドルのぐらいでした。これらの日のとても安いです。今の平均結婚服物価は以上の1000ドルぐらいです。
次、私たちは花の上に決めました。私と私のフィアンセの一番好きの花はピオニです。でも、ピオニはとても脆いと割高です。そして、違いの花上に決めました。私たちは2つの花屋に行きました。最初の花屋にも高価いました、でも、2番目の花屋はとてもいいでした。ピオニの代わりに、花屋はアジサイを提案しました。アジサイのピオニの花に似ているが、とても安いでした。これは、すべて300ドルのぐらいでした。これらの日のとても安いです。今の平均結婚花物価は以上の900ドルぐらいです。そして、私たちはラッキーでした。
最後に私の思い出の一日はとても楽しいでした。今、Kandisはイングランドに住んでいます。イングランド遠く離れているから、私は彼女の関与を感じてほしい。

ホリデーさん

一番こわかった一日
七月二十二日二千六年にインディアナのコナーズビル市で、私の甥が生まれました。でも、九月までに生まれなくてはいけなかった。だから、あの日はとてもこわかったです。
私は姉が陣痛が始まるのを聞いた時に、デパートのアルバイトをしていた。私の義理の父はデパートに電話をかかって、あねについての情報を言ってきたとたん、心配し始めました。故に、アルバイトを早く出ました。
仕事には目もくれず、急速に病院に運転しました。あいにく、そこで母は休暇を取っていたので、病院に行ったことが出来ませんでした。病院に行きかけたとき、こわくになりました。でも、着いた時に、たくさん家族の人はいました。それから、ちょっと気持ちがよくになった。
長い時間に待った後で、医者さんは私たちに甥がひっくり返しなかったと語りました。すぐに、息を出来ないほど、びっくりした。私の家族は一緒に、神様に祈り始めた。待った後で、私たちに姉は非常帝王切開がいったと言われた。家族はとてもこわかったです。
でも、帝王切開は大丈夫だったのに、私の甥、マイケルちゃんは、四ポンド十五オンスだけで、自分で息を出来ませんでした。甥ちゃんは死ぬことを思ってしまいました。何でもすることを知りませんでした。落ち着きにボーイフレンドに電話をかかった。甥ちゃんに医者さんは手伝ったので、ぎりの兄と私のお父さんとぎりのお父さんはマイケルちゃんに見ることが出来ました。
出生の後で、速く甥ちゃんはライリーという病院に行かせました。お父さんと一緒にライリーに行った時に、私は十八歳ではなかったのでマイケルちゃんを抱いてはいきませんでした。私はとても悲しかった。でも、あの病院滞在中に甥ちゃんは元気になりました。ある日、私と姉はマイケルに尋ねた時に私はついに甥ちゃんを抱けました。その日は一番うれしかった日でした。
今日、マイケルちゃんはとても元気です。七月、三歳になりました。頭がとてもよくて、たくさん言葉を言うことが出来ます。私はマイケルちゃんをとても愛していますから、甥を甘やかします。今までに、「L」を言えないので、マイケルは私を「Aunt “Awi”」と呼んでいます。私はかわいいと思っています。
2006にその日は一番こわかった一日でしたが、今甥ちゃんは元気で、うれしいです。早く成長していますから、私はやめてほしいです。甥ちゃんをとても愛しているのに、彼は私に長い時間に子供がほしくないことを教えた。

トラウトさん

日本語のクラスの日
日本語の授業の試験はいつもとても難しかったと思います。たくさん漢字を覚えなければならなって、新しい文法を知りなけっればならなって、読み物の部分とリスニングの部分があります。いつも勉強することはたくさん時間がかかります。だから、今まで、私の一番こわかった一日は試験一のです。
この学期、病気にあって、怪我がありますから、私は時々学校に行くことができません。だから、文法練習のクラスのことが知りません。そして、読み物と宿題もよくできません。だから、私は文法を作るの経験がありません。とてもこわいと思いました。
でも、日本語のクラスもとても楽しかったと思います。そして、この夏休みカリフォーニアのチコで私のいとこニックと一緒に住んでいて、バーでバウンサとして働きました。よく楽しんで、日本を時々作って、とても面白かったと思いました。バーで働きましたと言いましたけど、私の友人タクとは日本人です。彼とよく働いて、日本語をよく作ります。私はたくさん日本語のことを学びました。とても便利な経験と思います。
だから、私はここに帰た時、日本語401のクラスが準備したと思います。だから、この授業の最初の日は私の一番面白かったのです。そして、私はたくさん友達があります。だから、教室に入った時、あの人を見たり、いい感じがありました。とても楽しかった日だと思いました。
でも、日本語の授業は、いつも楽しくないと思います。そして、たくさん宿題があって、単語クイズがあって、作文を書かなければありません。そして、私はよくぐずぐずしますから、よくクラスの前にこの宿題をします。そして、今日、私は起きて、このクラスの講義内容一覧表を見て、 とてもびっくりした。今日、授業の前に作文二の聖書のハードコピーは先生に提出するべきです!働かなければありません。だから、今日は私の一番びっくりした一日です。今、私は心配な人です。
これまでに、この学期はとてもいいだと思います。そして、日本語401のクラスもいいです。時々この授業は難しい。時々面白い。時々びっくりしたと思います。でも、卒業した後で、仕事と家族がある時、生活は同じだと思います。時々難しい、時々面白い、時々びっくりした。そして、このクラスを完成したら、この未来の生活を準備になりましたと思います。だから、今日も私の一番嬉しい日だと思います。今、私は授業に行かなければありません。じゃ、待ったね!

クラインズさん

思い出の一日


とても大変だった一日は昨日でした。一番大変な一日といえないかもしれないのですがかなり最近起こったので分かち合いたいと思います。昨日、10月18日でシカゴ市に彼女といっしょにいました。ごごの五時ぐらいになったら大変な一日になりました。そこまではとても楽しんでいていい一日を過ごしていました。彼女の家族とともにとてもおいしい朝ご飯屋さんにてべにいったり面白いアメフトゲームを見たりしてこのように時間を過ごしていました。しかし、五時になったらかえて一日がだめになっていきました。
まず、大学に戻るためにバスにのって時間通りに間に合わなくてはいけませんでした。バスの乗る時間は六時で遅れていると思ったから急いでバス乗り場に向かっていきました。やはり、時間をのばされて大丈夫でしたが、そうしてすぐにルームメイトから電話がきて悪い情報をくれました。僕の犬の首の周りに何かだめなことが出てきました。ほかの犬にかまれて大変な傷があることとけっこう腐っていてくさいといいました。それを聞くととてもびっくりして悲しんできました。それについて聞く間に彼女の車を引っぱっていくトラックがきました。そこで引っ張っていくことをしないように説得しょうとしました。結局的にしないようにできたが大変でした。
バスに間に合うことができたけれども、バスはとても心地の悪いものでした。バスに乗りながら母から電話が来て口座でお金がなくてそして、お金をとりすぎたこともお知らせした。それをきたとたん泣き出すところでしたが泣きませんでした。やっと大学についてうちから遠いところまで連れて行ってもらいました。誰も迎えに来てくれる人がいないために歩いていくことしかないと思って歩いていくことにしました。それに重い荷物が三つあってとても疲れさせられました。
うちについて犬の傷を調査しに行って言われたように犬がとてもくさかったです。その最近の一日は僕の思い出の中で一番思い出しやすい一日です。今日以後にはよい一日ばかりが続けるように頑張っています。

マルティネスさん

今日までで私の一番悲しい一日について
今日までで、私の一番悲しい一日は私の母が突如死んだ。毎日にその日を考える。母は私の一番好きな友達だった。母が死んだ時に、私は十五歳で、南インディアナのフロィドセントラル高校の一年生だった。その間に、私の家族はたくさん苦労があった。
その前に、私の家族は七家族だった。母と父と姉と二人兄と弟と私がいった。姉を除いては皆が南インディアナに住んでいった。母はEMTになりたいから、大学に行った。毎晩、母は色々な医療を勉強した。母は頭が良かった。母の授業で、私の母の成績が一番高かったから、死んだ後で、母の先生は母に健康診断書を上げた。母は友達と一緒に勉強した時に、死んだ。
メモリアルディーがあった。5月17日2002年に私は高校の休みを楽しんだ。勉強する前に、母は「今日のいつか服を着て下さい」と言った。私はパジャマもう着て、ドラゴンボールZマラソンを見ていった。二人兄が家を出た。弟がいとこの家に行っていった。父が二回に仕事をしていった。本当に普通の日があるそうだった。でも、母は外に行ったとたん、私は変な感情を感じた。私はその感情を無視した。
その晩に父はジョギングをした。一人で家でいた。電話が鳴らした時、何をしたことが覚えていない。私はたぶんテレビもう見ていった。
電話で女性は「クラークメモリアル病院です。マルティネス•レベッカについてなんですけど、夫がいっらしゃいませんか」と言った。私は晩御飯を吐こうと思っていたほど、不安が強かった。
私は「私は父に病院に電話をかけ直させた」と言った。一時間ぐらい後で、父は家に帰ったり、看護婦に電話したり、病院に行ったりした。その後で、私は姉に電話をした。
私は「母は病院に行った!死んだと思う!」と言った。
姉は「落ち着いなさい。母はたぶん大丈夫だ。父は家に帰るために、待って。」と言った。
私は母が大丈夫じゃないと思ったから、泣き出った。けれども、すぐに、弟が家に帰った。私は弟に「母が友達の家でもういるよ」と言った。それで、次の日授業があったから、私達は寝た。
次の朝に授業のために、誰も私に起きなかった。9時に一人で起きた。私は階下の部屋に行った。そこで全部の親せきがいた。父に「母はどこ」と聞いた。父の答えには目もくれず、私はもう一同泣き出った。私もう分かっていた。母は死んだ。
その日は今日までで私の一番悲しい一日である。そのこと後で、日々は新しい難題である。毎朝起きる時に「がんばって」と言う。

タイさん

大変だったの一日
この大変だったの日は昨年夏休みで日本に帰る前アメリカにいた最後の一日です。普通には、日本の家に帰るなら、West Lafayetteから出って、約24時間くらいかかります。しかしその日は四日間もかかりました。
私のルートは国内線でインディからシカゴ、ロスアンジェルスに乗り換え、国際線を乗ります。その日インディから出るの飛行機は夜でしたから、私は昼からもう準備が出来て、友達とテレビを見て最後の午後を楽しんでいました。その時、「どどん!!」雷の声がありました。友達と冗談して、「飛行機は大丈夫がなぁ」と言いました。飛行機出発の2時間半前、リムジンを乗って空港に向かいました。雨がザーザーと降っていたが、チェックーイんなどは全部順調し、飛行機の中まで座りました。でも座ったから30分くらい経って、もうそろそろ離陸すると思ったとたん、放送が入りました。乗務員からシカゴは大雨なのでしばらくは離陸できませんとわかりました。その時私は小説を読んでいるから、あまり気にしなくて読み続けました。でも私はだんだん眠くなって寝てしまいました。それで、次ぎ起きたのは3時間後です。でも飛行機はまだ動いていませんでした。天気の原因からどうしようもないとわかっていますが、周りのお客さんも不満が言い始めた。ついに空に飛んだのは予定より4時間も遅れました。ですからシカゴに着いたのは午後の10時半でした。その時間ではもうロスアンジェルス行きの便がなくて、次の日の朝7時まで待たさなければいけませんでした。数時間しかないから旅館に泊まっても意味がないと思いながら、空港のレストラン街の机の上で寝ました。翌日の朝チェックインのカウンターに行って、やっと7時半にLA行きの便を乗らせました。そのときの私は疲れてもう問題がなくて日本に帰られるでしょうと思いました。
四、五時間後LAに着いて、国際線のカウンターに一番早く出発するの席を取りたいと希望したところで、次の飛行機は明日の夜11時のことでした。私はがっかりした上で飛行機会社のマネジャーと相談した。何とかして別の会社と協力し、もっと早く家に帰りたいとの気持ちを伝えたが、チケットは特別の割引券だから、別の会社に移転できないとの結果でした。私は結局、空港に近くのホテルに泊まることにした。LAにいるのは一日があるから、朝から空港で待つよりLAで回るのほうが楽しいと思った。ですから、その日、たっぶり寝て、翌日の9時くらいおきた。LAシティに行くのはじめでから、地図を持ちながら、バスでダウンタウンのほうに行った。ダウンタウン以外もメトロでhollywoodやStaple Centerなどに訪ねました。
今度の“LA旅”は初めて一人知らない場所に行って、いろいろな経験ができました。まだいつか機会があれば、どこがわからない場所に旅行をします。

アーロンさん

膝が大変
今まで、嬉しい、悲しい、怖い、面白い日が多くあります。人生とは面白く体験することです。夏休みの大阪にいる時、嬉しくて面白い日が多かったが、前の春がわずか大変でした。大阪の旅行に向かって見ながら、一生懸命バイトをよくしていて、運動と格闘技のトレーニングをしました。いつでも大阪を考えたら、血が騒ぎました。ある日、バイトがとても忙しくてストレスが多かった日だから、 同僚と一緒に格闘技スパーリングとレスリングして遊ぶことにしました。スパーリングはとても楽しかったで、僕は上手を感じました。しかし、最後のスパーリングラウンドで、友達は僕の足を怪我しました。意図的じゃありませんでしたから、怒りませんでしたが、直ぐ僕はとても怖く感じました。総合格闘技を練習するために大阪へ行くことにしましたが、僕は歩けなければ、どうしますかと考えました。そして、膝の怪我が酷ければ、将来にファイターになることが出来ないことを心配しました。ルムメートが体育館へ来て、アパートに僕を連れて行ってくれました。その晩、なかなか寝られませんでした、膝が痛くてよく心配していたからです。次の日、バイトを電話かけて、PUSHというクリニックにスポーツの医者にみて行きました。幸運にも、 前十字靭帯(ACL)が大丈夫でした。でも、膝の軟骨がダメージをしてしまいました。医者は「あなたは直ぐ歩けるですが、まだ日本に行きたければ、リハビリしなければなりません。でも、リハビリをしたら、必ず格闘技を練習するは安全かどうか分かりません」と言いました。二日後で、リハビリを始まりました。一週間松葉杖で歩いて、2週間痒い添え木を使って歩きました。その時、階段がとても大変で、いつも遅く歩いていました。日本へ出発するまで、毎日と毎晩のように医者に教えてくれた足体操をしました。痛かったが、大阪へ行くために我慢出来ました。その内、大阪に着きました。足が大丈夫を感じましたが、まだ弱かったです。ShootoGymOsakaという総合格闘技ジッムに入って、一週、四か五回トレーニングしました。トレーニングする時、足をテーピングしたから、ちょっと痛かったがトレーニングが出来ました。でも、六月十日、アメリカで作った友達と一緒に柔道道場に行きました。練習を始まって15分ぐらい後、相手を投げる時に膝を脱臼(脱臼、dislocate)してしまいました。それは三回目怪我してしまう時です。三日間休まなければなりませんでした。しかし、ボクシングのトレーニングを続けました。
最近、足がまだ弱いが、格闘技のトレーニングをして続けます。春の膝を怪我した日は一番怖くて大変だった日です。